軍艦防波堤を語る会 

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2019年4/7(日)【報告書】
【第十回 軍艦防波堤を語る会 要旨。平成31年4月7日 旧古河鉱業若松ビルにて】

軍艦防波堤を訪問する場合、突風に注意し、海に転落しないよう注意喚起。
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会が2010年に始まり、今回が第十回と挨拶。
軍艦防波堤は、柳、凉月、冬月と3つの駆逐艦で構成。このうち凉月、冬月は戦艦大和とともに沖縄海上特攻に出撃、多くの犠牲者を出した。柳は百年以上前に地中海で活躍。

駆逐艦凉月の元乗組員、溝江美代次さんについて紹介。
戦友会である凉月会を何十年間もお世話した。
晩年、病床で凉月の駆逐艦長、平山敏夫中佐の孫、Sさんと会見を果たし、
その後永眠。それを契機に語る会が10年前に始まった。

溝江さんの肉声(録音)で
(軍艦防波堤を)残していってほしい。二度と戦争はしてはいけない。
とのメッセージ。

1945年。74年前の4月7日は沖縄海上特攻の日。
戦友会凉月会は毎年この日に何十年にわたって行われてきた。
この語る会もそれにちなみ、4月7日以前の日曜日に実施。
若松区高塔山にある慰霊碑は犠牲者の鎮魂のため建立。
全員で戦争犠牲者に1分間黙祷。

数十年前の慰霊碑建立趣意書の朗読。

(原文画像)

主催者が20年前に軍艦防波堤と出会い、手作りした軍艦防波堤の絵本を10年ぶりに朗読。(軍艦防波堤紹介のため)

軍艦防波堤の位置紹介。

軍艦防波堤を構成する三艦の模型による配列の説明
さらに大和の模型。大和は凉月、冬月と共に沖縄海上特攻作戦に参加

駆逐艦凉月 元乗組員、太田五郎さんと宮原明さん(二人共故人)紹介。
沖縄海上特攻の鉢巻を持つ写真。お二人はこの会場で十年前語った。

【太田さん肉声(録音)】沖縄海上特攻で、日本に飛行機の護衛がほぼなかった。敵航空機に対応できず、直撃弾受け戦死者多数。後進で佐世保軍港に帰還。

【宮原さん肉声(録音)】
後進帰還時、船は前方の部屋に三名が犠牲になり、部屋を守るためドアを閉め、窒息で死亡。その部屋の浮力で凉月は沈まず帰還。

このような言葉を受け十年間、会を続けた中での出来事を順次紹介。

凉月の駆逐艦長の孫Saさんが「軍艦防波堤へ」を出版。
先程の手作り紙芝居を元に、Maが「若松軍艦防波堤物語」を出版。
来場者、Hさん提供の、今は埋もれている冬月と凉月の写真、柳の情報など掲載。
現在視認可能は柳の姿だけ。

軍艦防波堤研究の第一人者、Moさん駆逐艦柳の設計図発見、会に寄託。
実物は年に一度この会で展示。

駆逐艦柳の元乗組員、平田重成さん紹介。百年以上前に地中海で付けた日記、顔写真。

Hiが、入手した駆逐艦柳の写真(1907年撮影、上海)紹介。
海外のネットオークションで、米ワシントン経由で入手。
やなぎ、かし、もも、と読める。
柳と共に地中海で活躍した駆逐艦。当時日本の最新鋭艦。

上と別に最近新たに発見された柳の写真紹介。
来場者が実家倉庫を解体した際、上海事変で警備中の柳の写真アルバム発見。

駆逐艦冬月の元乗組員、Oさん来場。戦艦大和が冬月の真横で沈む様子を語った。
【録音を再生】
船(大和)が傾斜して、左に傾き、甲板をずり落ちる影が見える。
最後は弾薬庫に火が入り、水柱、火柱、上がった。
その後、隊員らの救助に当たり、佐世保に帰還。
人名の尊さを、本当に感じた。本当に申し訳ない。
【再生終わり】

Oさんのお話をこの会場で聞いた高校生が、思いを本に記載。
十年の間に若い世代が軍艦防波堤を受け入れるようになる。

2013年に始まったPCゲーム、艦隊これくしょんで若者が戦争に関心を向けるようになる。その数、数百万。

綿密に調査された艦船の性能や戦歴など、戦争を具体的に題材にしている。
凉月も2017年にこのゲームに登場。
艦これをきっかけに戦争に注目し、はるばる軍艦防波堤を訪れる若者も多い。

艦これを見ての来場者は、会場約七十名前後のうち三分の一が挙手。

駆逐艦凉月の駆逐艦長 平山敏夫さんの孫Saさん、主催者の一人Maと十年前の語る会設立当時を語る。
Sa:11年位前「軍艦防波堤 凉月」と検索
Maとメールのやり取り、二ヶ月後に息子を連れて初めて会見。
太田五郎さん、宮原明さんにも会見。
凉月が係留された相浦も探索。
その経緯も含め「軍艦防波堤へ」を執筆。

Saと病床の溝江美代次さんの会見は平成20年。
Saが艦長の平山敏夫の孫と告げ、その時だけ溝江さんは何年ぶりにか、はっきりと眼を開け、「お懐かしゅうございます」と声もかけられた。

現在語る会は、様々な情報や物、資料を持ち寄る状況がある。

Saの家にも凉月の大きな模型や、
平山艦長に戦後、乗組員の方が書いた手紙
(坊ノ岬沖で被弾後、沖縄行きか佐世保帰還かを艦上で議論。若い将校、このまま突っ込めと主張、軍刀を抜いて艦長、先任将校に迫ったシーンあり。)

具体的な物をまとめ、何時でも誰もでもが見れる形にするのが、最終的に望まれる。

凉月元乗組員、太田五郎さんの実子Oさん語る。
父は横須賀の砲術学校を卒業し長崎の造船所、建造中の駆逐艦凉月に艤装員時から乗り組み、昭和20年4月7日沖縄特攻隊、配属先は二番砲塔旋回手。
始めから最後まで凉月に乗り組んでいた一人。
防波堤になり、その後解体された凉月鉄材でできたネクタイピン紹介。凉月そのもの。

最近は護衛艦「すずつき」できあがった時、元乗組員3人と家族が招待受け、艦長自ら艦長室まで案内。大変感激。

戦後七十年で、あちこちから取材受けその一つ、
太田五郎さんの記事が掲載された佐賀新聞。
眼の前で大爆発した巨艦、戦艦大和の最期と掲載。

また、凉月は昭和19年1月16日、宮崎県東方100km地点で米軍から攻撃受け、船は同時に前後を破断。約250人が死亡。
艦橋部は沈没を免れる。

父はその一週間前に配置替えのため偶然生き残る。
非常に心残りあり、何とかそこに慰霊碑建立をと希望するも、丁重に断られる。
1月16日、十時半、父と一緒に太平洋に向かい手を合わせた。

父はそれでも、自分は生き残りの兵の一人だから、亡くなった戦友たちを弔いたい。
自分の身代わりに亡くなったからと常々申していた。
何らかの形で実現できないか。父は心の中に溜まっている。
と発言。

凉月元乗組員、宮原明さん実子Mさん
沖縄特攻時絞めていた鉢巻の実物を提示。(会の後、語る会に寄贈される)
その時、大変仲の良かった戦友が艦橋付近で爆撃にて死亡。
父が郷里に帰った時、戦友の家族に、あなたの息子さんは亡くなられたとか、言えなかった。
戦争は、人と人の殺し合い。してはいけない。
と発言。

後の時間は全部来場者のための時間
軍艦防波堤を語る会は、皆さんのご意見、ご質問で成り立つ会。

Q:凉月の「すず」は、二スイか、サンズイか。

A:海軍の正式な命名ではサンズイ。太田五郎さんの履歴書はサンズイ。
一部資料ではニスイ、戦友会もニスイ。【非公式だが長く使われた。】
【ニスイの凉月は、漢字表記上の「方言」と考えてはとの提案、後日出される。】

発言:私あと三ヶ月で95歳。
兄が大正9年生、23歳の昭和19年の1月25日に南太平洋で魚雷で死亡。
葬式、遺体は紙切れ一枚で骨箱のみ。

佐世保海兵団から横須賀の砲術学校、巡洋艦の妙高乗艦。
涼風という駆逐艦にも乗艦。眼の前で戦友が爆撃で死んだ。

昭和18年。私が中学生の頃、兄に誘われ鐘崎の浜にてボート乗る。別れに来たんでしょう、半年して死亡。
そのボートの中で、セーラー服や海軍さんの靴について等話し、親孝行せよと、
兄は靖国神社に祀られてるが、行っても声はかけてくれない。
こういう悲惨な戦争が私の生涯。

Q:凉月とは涼風と同じか。

A:涼風は白露型の10番艦。
凉月は秋月型の3番艦。
凉月と涼風は別の艦。

発言:私は地元の人間。年は八十以上。6,7歳の頃、この(軍艦防波堤の)船の上で遊んだ。ワタリガニが多く採れた。

大和を護衛してあんな遠い海から、生きて帰ってきた。あんな小さい船で、
あの艦はナイフみたいな細い艦。【高速化のため】
Q:乗員は何名ぐらいか。

A:380名ほど

Q:どこで造船か。A:佐世保。Q:大和はどこ。A:呉です。

発言:終戦頃、八幡製鐵所、爆撃受けた。
【製鐵所を守るため猛煙幕を焚いたため】
若松は煙で太陽が月に見えた。
【煙は翌日まで残り】B29が長崎に飛んでいった。
長崎が【原爆の】犠牲になった。あの煙でここ(北九州)が助かった。
【この煙幕と長崎原爆の関係は数十年語られなかった。数年前に新聞掲載。命令で猛煙を焚いた本人の述懐あり。それ以前は八幡大空襲の煙の影響と推測されていた。】

Q:日本はまた戦争をするのか。

A:私は三菱重工のロケットやミサイルの業務に従事。
飛んできたミサイルを撃ち落とすためのミサイルを設計。戦争を未然に防いでいく。

Q:凉月などを若松に曳航してきたのは何年か。

A:23年にはもうここにあった。

Q:コンクリートでほとんど形が見えなくなったのは何年ごろか。

A:昭和三十年代

発言:船はかなり沈み、水が入っていたのではないか。多分昭和二十八、九年から三十年頃。

Q:慰霊碑では、柳は松型駆逐艦の柳となっているが。

A:慰霊碑では松型駆逐艦、第二次大戦時の艦であると記載ある。
しかしそれは青森県の方に沈んだ船。

実際には、若松の軍艦防波堤は百数年前の大正時代の桃型駆逐艦、初代の柳。

【松型駆逐艦柳であるとの記載は建設当時の通説と思われる。今も信じる人がいる。通説は鵜呑みにしてはならず、資料に基づいた考察が必要。】

発言:明治の祖父が船乗り、門司港の船員学校を出て、祖父の家は、こういう【会場の旧古河鉱業若松ビルの様な】洋館建ての家。
宇佐の平和資料館、掩体壕を毎日見たり、親類も船会社の組織にいた

発言:去年は駆逐艦雪風、磯風に乗った方からお話を伺った。
俺達は家族のために戦うんだと、戦いに臨んだ
俺達だけで戦ってやるっていう決意で戦ったと聞く。
磯風乗艦者の話。
大和の最後の時、最後を見届けよとの号令が艦内に響き渡り、全員で大和を見送ったそうだ。

発言:高塔山の慰霊碑は分かりづらかった印象。地図があれば。

A:
慰霊碑への道順


防波堤への道順

Q:軍艦防波堤の建造当初は、船体に海水を入れてその場に着底させたのか。

A:(海水ではなく)色々な物が詰め込まれ、重くなった状態で着底させた。

A:海水では不安定なので内部にコンクリートを充填した。艤装関係は撤去済みだった。金属盗難もあった。
【※注 船体に充填した主な物資は石などの不要材。部分的にコンクリートも入れたかは不明だが、戦後の極端な物資不足ゆえの艦体利用。現状のコンクリートは後年入れたと推測。軍艦防波堤連絡会記す。】

発言:「若松物語」をきっかけに、軍艦防波堤の朗読活動を展開中。
まだ北九州在住者が軍艦防波堤をあまり知らない。活動の時、良くて四、五人位。一人もいないことも。

Q:「軍艦防波堤へ」の一節に、凉月の形にコンクリートが曲がって見える、とある。実際は?

A:岸壁が通常は直線であるはずが、ごくわずか海に向かって膨れている。
ただあの場所はお墓に近い聖地。決して荒らさず想像を巡らすだけにしたい。

Q:凉月、冬月の形、場所を目で見える様にできないか。

A:気長に働きかけたい。

一旦閉会。

駆逐艦柳設計図の現物公開実施。(年に一度)

各自資料閲覧、個人的懇談など。三々五々自然解散。
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報告以上
令和1年5月3日

【【】や()内は連絡会による注釈】
【存命の方は原則イニシャル表記】
【凉月の表記は、ニスイの「凉月」と統一。海軍での正式表記はサンズイの涼月。どちらでも間違いではないとされる】



2016年語る会の感想です

語る会、ありがとうございました。

 投稿者:軍艦防波堤連絡会 世話人  投稿日:2016年 4月 8日(金)
 

前回4/3は、軍艦防波堤を語る会に皆様お集まりいただき、ありがとうございました。素晴らしいお話が聞けました。
色々なご意見が寄せられ、少しずつ抜粋しながら、当日のことを共有してみます。

「冬月の元乗組員の直接のお話や「凉月」駆逐艦長が、震洋、冬月に深く関わっていたお話、柳の地中海遠征の話など中身の濃い会
全国各地からいらした参加者の熱気に圧倒。」

とのご意見、中身が濃かったという感想は、何人もの方からお聞きしました。全く自分自身の体験や長い間かけて考えぬいた中身は、圧倒されるものがありましたね。
200/1模型を使った秋月型駆逐艦の詳細な解説も微に入り際に渡る、他では聞くことのできないものでした。

また、この日ご都合のつかなかった、「凉月」元乗組員で佐賀の方は4/7に高塔山で行われた「慰霊祭」に豪雨の中参加され、その後軍艦防波堤などを廻られたそうで、ご健在です。

地元の方からは、
「若い方による進行、参加の方も若い世代が多くなっていて嬉しく思いました。」とのご意見でした。

記憶を語り継ぐ相手として、どうしても若い方に聞いていただき、次の世代に渡していく必要があると常々考えており、たくさんのお若い方に来ていただき、本当にありがたいことです。老若男女それぞれの感じ方を伝え合うことの大切さを思いました。

「課題としては、地元での認知度アップ
防波堤や、高塔山慰霊碑への道順、若松駅などでのPRなど。
到底すぐにできることではありませんが、一歩一歩前に進めていけらたいいですね。」

とのご意見、全くでした。特に、高塔山慰霊碑を知りたいという方がずいぶんおられて、関心が高まっていることをひしひしと感じました。

・終了後、軍艦防波堤まで行き、帰りを徒歩で若松駅まで帰った猛者がいました。2時間かかったと言いますが、私ならもっともっとかかったことでしょう。
また、軍艦防波堤の位置がわかりづらい事は様々な意見が出されました。
自転車で訪ねて行ったが、夜までかかっても道がわからなかった方、
駅がわからなくて小倉駅からタクシーで行くと、何万円もかかった話、
地元民として申し訳ないお話でした。


なお、推敲中ではありますが、柳の地中海日記はこちらから活字文字を読むことができます。

日記本体はこちらです

その他
多くの資料もこちらにあります。 2013年の記録

 
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