令和三年 軍艦防波堤を語る会
4月4日(日)14時から
北九州市若松区
旧古河鉱業若松ビルにて 開催
今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため
完全予約制で開催
当日予約なしの入場はできません。ご了承下さい
ご予約はTwitterにて下記TwiPla【令和三年 軍艦防波堤を語る会】にアクセス
「参加する」をクリック。(予約人数が定員を上回った場合抽選となります。ご了承下さい。)
話題予定
●軍艦防波堤、駆逐艦「柳」「凉月」「冬月」について解説
●朗読家 中嶋かつ子氏 軍艦防波堤について朗読「凉月 イズコ…」(ギター伴奏 若菜潤一郎氏)
●駆逐艦「柳」設計図【実物青焼き】、
駆逐艦凉月乗組員が沖縄特攻時しめていた鉢巻き(実物)公開 他
会場(旧古河鉱業若松ビル)の地図
会場のPC用地図
●軍艦防波堤を語る会の
●{軍艦防波堤}そのもの、について
●軍艦防波堤への地図(海の横。会場ではない)
●軍艦防波堤 三艦慰霊碑の場所(山の中。会場ではない)
●貴重資料百年前の柳の日記、設計図など、無料公開中
●
前回の「令和二年 軍艦防波堤を語る会」 ご視聴ありがとうございました。 |
ご協力ありがとうございます。 アンケート引き続き、受け付けております。 9月25日までの結果をご覧下さい。 |
視聴できます。 ご意見、ご質問はこちらでも受け付けています |
挿入歌「千の蜻蛉」 "火之神公園平和祈念展望台イメージソング"『 千の蜻蛉 / 宮井紀行 』はこちらから全曲視聴できます。 歌詞は、リンク先の「もっと見る」に掲載されています。 |
(以下は、古い記載があります。)
主催者より皆様へ(2019年の語る会 挨拶)
十年を迎えた「軍艦防波堤を語る会」、参加者は一般の方々がほとんどですが、
元乗組員関係者、駆逐艦凉月駆逐艦長の孫なども参加します。
質疑討議がとても活発です。2時間のうち、主催者発表は30分程度。(2021年は60分前後予定)
他の時間は、自由な質疑、懇談が熱心に行われます。
この会は、「知識のある人が、ない人に教える」ものとは違います。
参加者一人ひとりが小さな疑問、伝えたい思いを出し合い、
会場が小さなインターネット社会となって伝え合います。
軍艦防波堤を「知りたい」「伝えたい」が会のエネルギーです。
どんなに知っている人がいても、聞く人が拒めば話せません。
「聴きたい」人がいてこそ、初めて語り継げます。
「知りたいあなた」こそが主役です。
(少し前まで、戦争の話題はタブー視され、話しても拒まれ、戦争経験者は思い出すこと自体が苦しく話せない時代が続きました。
かなり昔の「戦争を知らない子供たち」という歌は、そんな世代間の断絶から生まれたのかもしれません。)
ところが戦争経験者は次々に他界しています。
戦争は忘れ去られ、戦争を知らない世代は、いつか戦争を起こしかねません。人類は常に争い続けて歴史があるからです。
しかし今、インターネットやPCゲーム「艦これ」に影響され、戦争の事実を知りたい若者は激増しています。
是非「軍艦防波堤」を語り合いましょう。
2020年は特に、戦後世代が沖縄海上特攻や戦争の事実に注目し、活動している事実を紹介します。(2020年はネット配信のみとなりました)
ただ、話題は軍艦防波堤に限られます。他の戦争の話題は、ほとんどお答えできないことがあります。
また、会場はさほど広くありません。万一立ち見になる場合、立つのがつらい方に席をお譲りをお願いします。ご承知おき下さい。
(まだ過去に立ち見の例はありません)
(以上は、過去の文書です。2021年は一部違う展開となるかも知れません。)
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過去の語る会
2013年の語る会 報告書です。ご覧ください。
●過去の語る会の報告。会の雰囲気がわかります。(このように、発言内容は、個人が特定されない形で公開される事があります。)
・艦これ速報で話題になっていました。コメントに答える形で、色々紹介しました。
軍艦防波堤とは
昭和20年4月7日は、沖縄海上特攻で沈められた大和とともに、凉月・冬月は多くの犠牲者を出した命日でもあります。凉月元乗組員・凉月会世話役の 故・溝江美代次氏は、元乗組員関係者らと共に慰霊祭を毎年この日に高塔山慰霊碑にて行なってきました。
これにあやかり、軍艦防波堤を語る会は、この4月7日か、それより前の日曜日に毎年行なっています。
参照 軍艦防波堤のページ。どこにあるか場所も書いてあります。
軍艦防波堤は北九州市港湾局によって看板設置や補修が行われました。
第二次大戦末期、主に戦闘機で爆弾を抱えたまま、敵艦に体当たりする戦法が取られました。特別攻撃(特攻)といいます。沖縄本島に米軍が迫った時、日本は最後の決戦をこの特攻で行いました。同時に戦艦大和はじめ、沈まずに残った軍用艦を集め沖縄方面に向かいました。この中に冬月、凉月もありました。
事実上の役割は米軍航空機の攻撃をその身に集め、米国艦隊に対する航空特攻を少しでもしやすくすることでした。そのため、上空を援護する航空機は無く、集中的に攻撃を受けました。(乗組員への命令は、沖縄に乗り上げて最後まで戦う事でした。(参照=天一号作戦)しかし沖縄までは行けませんでした。)これが沖縄海上特攻と呼ばれます。戦艦大和はじめ護衛艦の多くが沈み、大破し、帰還できた人や船は冬月、凉月などわずかでした。ただ、奇跡の生還を遂げた凉月は強力な兵器を積んでおり、少しでも本土を守りました。海上特攻については軍鑑防波堤のページ筆者の知る範囲で書きました。正しく知りたい方は別に調べましょう。
●なぜ若松に凉月があるか
このページは書きかけです。不完全な記述もあります。正しい事実は自分で調べ直しましょう。連絡はこちら
軍艦防波堤の地図(会場ではありません)携帯専用
紙印刷用軍艦防波堤への道順地図ですA4紙印刷をおすすめします。
但し、現地は晴天でも 突風が吹き危険!です。
海に落ちると上がれません 。
一人でも事故を起こすと、訪問をお勧めできなくなります。
十分ご注意ください。
軍艦防波堤の掲示板はこちらです。
以下本文↓
軍艦防波堤連絡会 ホームページ |
書籍「若松軍艦防波堤物語」の付録資料ページ こちら |
北九州市若松区に眠る軍艦防波堤。(柳、凉月、冬月から成る) その史実の保存、連絡、情報交換等をする同好会です。 毎年4/7頃、「軍艦防波堤を語る会」をしてきました。 1999年調査開始。政治思想無し 。 軍艦防波堤連絡会の正体は? |
この資料集は、軍艦防波堤に関わる発言や文書等を後世の人々が読める事を目的に保管します。 リンク内部 目次 ・実際に「柳」を体験した方が、戦後その思い出を書き綴った貴重な記録 ・駆逐艦「凉月」の思い出( 太田 五郎) ・軍艦防波堤連絡会より 海上特攻隊の関門海峡通過に関わる問題提起(私見であり、資料ではない) ・第一回 軍艦防波堤を語る会の前身 「駆逐艦凉月元乗組員と語る会 」のやりとり 発言記録 ・インタビュー 凉月について 対談 太田五郎さん、宮原明さん ・インタビュー 凉月について テレビインタビュー 溝江美代次さん (太田五郎氏、宮原明氏、溝江美代次氏は、駆逐艦凉月元乗組員。実際に大和を護衛し、沖縄沖から奇跡の生還を遂げた当事者。) |
以下資料です
軍艦防波堤連絡会のツイッターです
これは、山の中の「慰霊碑」の話です。海の側の「軍艦防波堤」ではありません。。お間違えなく。
軍艦防波堤三艦慰霊碑の位置を地図案内しました。
慰霊碑に行きたいという声が多いので、案内地図作りました。
大正時代の駆逐艦「柳」の乗組員・平田(山川)重成氏の大正七年の日記公開しました。書き起こしボランティアも求めています。
102年前、大正時代の桃型駆逐艦「柳」の設計図データ、公開しました。詳細に見えます。
自由な発想でお使い下さい。ダウンロードできます。
訪問者アンケートご協力ありがとうございました。結果の一部を公開いたします。ある年に、何人の方が「軍艦防波堤を訪問したと回答したか」を集計しました。実際に1日現地で取材した結果では、1日に六人も訪問者がいたので、この表は氷山の一角です。
↑本文以上↑。
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