軍艦防波堤 を語る会

2018年4/1(日)

入場無料 申し込み不要

日時

2018年 4月1日(日)1時〜2時半(その後自由懇談)

会場

旧古河鉱業若松ビル

(若松渡場から西へ200m)

住所 北九州市若松区本町1丁目11-18 TEL 093-752-3387
駐車 若松サンリブ(有料)から徒歩5分
交通  JR若松駅から 徒歩10分


話題予定

●駆逐艦「柳」について。

●駆逐艦「柳」設計図【実物青焼き】年に一度の公開。

○他、話題をお持ちください。



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会場のPC用地図

携帯 会場地図(軍艦防波堤の場所ではありません) 

スマホ用 会場地図(軍艦防波堤の場所ではありません)

 


軍艦防波堤の地図(会場ではありません)携帯専用

紙印刷用軍艦防波堤への道順地図です

前回の感想です

語る会、ありがとうございました。

 投稿者:軍艦防波堤連絡会 世話人  投稿日:2016年 4月 8日(金)
 
 

前回4/3は、軍艦防波堤を語る会に皆様お集まりいただき、ありがとうございました。素晴らしいお話が聞けました。
色々なご意見が寄せられ、少しずつ抜粋しながら、当日のことを共有してみます。

「冬月の元乗組員の直接のお話や「凉月」駆逐艦長が、震洋、冬月に深く関わっていたお話、柳の地中海遠征の話など中身の濃い会
全国各地からいらした参加者の熱気に圧倒。」

とのご意見、中身が濃かったという感想は、何人もの方からお聞きしました。全く自分自身の体験や長い間かけて考えぬいた中身は、圧倒されるものがありましたね。
200/1模型を使った秋月型駆逐艦の詳細な解説も微に入り際に渡る、他では聞くことのできないものでした。

また、この日ご都合のつかなかった、「凉月」元乗組員で佐賀の方は4/7に高塔山で行われた「慰霊祭」に豪雨の中参加され、その後軍艦防波堤などを廻られたそうで、ご健在です。

地元の方からは、
「若い方による進行、参加の方も若い世代が多くなっていて嬉しく思いました。」とのご意見でした。

記憶を語り継ぐ相手として、どうしても若い方に聞いていただき、次の世代に渡していく必要があると常々考えており、たくさんのお若い方に来ていただき、本当にありがたいことです。老若男女それぞれの感じ方を伝え合うことの大切さを思いました。

「課題としては、地元での認知度アップ
防波堤や、高塔山慰霊碑への道順、若松駅などでのPRなど。
到底すぐにできることではありませんが、一歩一歩前に進めていけらたいいですね。」

とのご意見、全くでした。特に、高塔山慰霊碑を知りたいという方がずいぶんおられて、関心が高まっていることをひしひしと感じました。

・終了後、軍艦防波堤まで行き、帰りを徒歩で若松駅まで帰った猛者がいました。2時間かかったと言いますが、私ならもっともっとかかったことでしょう。
また、軍艦防波堤の位置がわかりづらい事は様々な意見が出されました。
自転車で訪ねて行ったが、夜までかかっても道がわからなかった方、
駅がわからなくて小倉駅からタクシーで行くと、何万円もかかった話、
地元民として申し訳ないお話でした。


なお、推敲中ではありますが、柳の地中海日記はこちらから活字文字を読むことができます。

日記本体はこちらです

その他
多くの資料もこちらにあります。

 


大正時代の駆逐艦「柳」の乗組員・平田(山川)重成氏の大正七年の日記公開しました。書き起こしボランティアも求めています。


102年前、大正時代の桃型駆逐艦「柳」の設計図データ、公開しました。詳細に見えます。

自由な発想でお使い下さい。ダウンロードできます。https://db.tt/bOl9wNVR


訪問者アンケートご協力ありがとうございました。結果の一部を公開いたします。ある年に、何人の方が「軍艦防波堤を訪問したと回答したか」を集計しました。実際に1日現地で取材した結果では、1日に六人も訪問者がいたので、この表は氷山の一角です。


・艦これ速報で話題になっています。コメントに答える形で、色々紹介しました。


昭和20年4月7日は、沖縄海上特攻で沈められた大和とともに、凉月・冬月は多くの犠牲者を出した命日でもあります。凉月元乗組員・凉月会世話役の 故・溝江美代次氏は、元乗組員関係者らと共に慰霊祭を毎年この日に高塔山慰霊碑にて行なってきました。

これにあやかり、軍艦防波堤を語る会は、この4月7日か、それより前の日曜日に毎年行なっています。


        軍艦防波堤の掲示板はこちらです。

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軍艦防波堤連絡会の正体は?
キタルキストさんが、全く第三者の目で、
会の活動の実像を記して下さいました。
怪しいモノではないことがよくわかりますよ(笑)
キタルキストさんのブログにリンクしています。

軍艦防波堤連絡会 公開資料こちら

この資料集は、軍艦防波堤に関わる発言や文書等を後世の人々が読める事を目的に保管します。

リンク内部 目次
・実際に「柳」を体験した方が、戦後その思い出を書き綴った貴重な記録
・駆逐艦「凉月」の思い出( 太田 五郎)
・軍艦防波堤連絡会より 海上特攻隊の関門海峡通過に関わる問題提起(私見であり、資料ではない)
・第一回 軍艦防波堤を語る会の前身 「駆逐艦凉月元乗組員と語る会 」のやりとり 発言記録
・インタビュー 凉月について 対談 太田五郎さん、宮原明さん
・インタビュー 凉月について テレビインタビュー 溝江美代次さん
(太田五郎氏、宮原明氏、溝江美代次氏は、駆逐艦凉月元乗組員。実際に大和を護衛し、沖縄沖から奇跡の生還を遂げた当事者。)

以下資料です


●軍艦防波堤とは

以上の解説を元にした、軍艦防波堤の簡単な解説書です。ダウンロードしてご覧下さい。PDFファィルです。
軍艦防波堤とは
若松区の外れに、第二次大戦後、三隻の船が防波堤の代わりに沈められました。船の名前は冬月、凉月、柳(注1)。
冬月と凉月は台風等で破壊され、コンクリートで埋められました。今姿が残るのは写真の柳だけです。

コンクリート下に埋められたとはいえ、冬月、凉月は、第二次大戦で戦艦大和とともに沖縄海上特攻を戦った駆逐艦です。特に凉月は大破しながら奇跡の生還を遂げたことで讃えられました。勇気ある行動を偲び、今も柳を目印にこの地を訪れる人がいます。軍艦防波堤連絡会は、この三艦にまつわる情報の集積を目指す親睦団体です。

参照 軍艦防波堤のページ。どこにあるか場所も書いてあります。

軍艦防波堤は北九州市港湾局によって看板設置や補修が行われました。

沖縄海上特攻あらまし

第二次大戦末期、主に戦闘機で爆弾を抱えたまま、敵艦に体当たりする戦法が取られました。特別攻撃(特攻)といいます。沖縄本島に米軍が迫った時、日本は最後の決戦をこの特攻で行いました。同時に戦艦大和はじめ、沈まずに残った軍用艦を集め沖縄方面に向かいました。この中に冬月、凉月もありました。

事実上の役割は米軍航空機の攻撃をその身に集め、米国艦隊に対する航空特攻を少しでもしやすくすることでした。そのため、上空を援護する航空機は無く、集中的に攻撃を受けました。(乗組員への命令は、沖縄に乗り上げて最後まで戦う事でした。(参照=天一号作戦)しかし沖縄までは行けませんでした。)これが沖縄海上特攻と呼ばれます。戦艦大和はじめ護衛艦の多くが沈み、大破し、帰還できた人や船は冬月、凉月などわずかでした。ただ、奇跡の生還を遂げた凉月は強力な兵器を積んでおり、少しでも本土を守りました。海上特攻については軍鑑防波堤のページ筆者の知る範囲で書きました。正しく知りたい方は別に調べましょう。

●なぜ若松に凉月があるか

洞海湾の出口若松側は、今も風力発電所があることからわかるように、年中強い風が吹き荒れています。このため洞海湾内にも大波が入り、戦後も港の人たちは困っていました。戦争が終わり、ここに旧海軍の船を持って来て防波堤代わりに沈める計画が国会で持ち上がり実現しました。国会議事録に残されています。
凉月は長崎県佐世保近郊に係留されており、比較的近く曳いて来やすかったのでしょう。冬月とともに若松港の防波堤として使われることになりました。
●現在 凉月の役割
新若戸道路(沈埋トンネル)の組み立て工事現場を今、地下に埋もれつつ凉月が基礎として支えています。もうじき皆さんもこのトンネルを通るでしょう。
沈埋トンネルには、大きな水道管も組み込まれます。2008年12月29日、若松は大断水しました。水源からの大きな水道管が若松に一本しかなく、これが破裂したためにおこりました。北九州市はほとんどの地域で二本の大きな予備の水道管があります。水の孤島となりがちだった若松では二本目の予備の水道管が凉月の上で組み立てられ、若戸トンネル内に通されました。

軍艦防波堤のページの作者記す。連絡はこちら 2011年2月13日
(注1)現在見える写真の柳は、大正時代の駆逐艦です。第一次大戦では地中海まで遠征しました。その後退役し、第二次大戦中は長崎県佐世保港に係留され、旧制中学の練習船として軍事教練に使われていました。
(注2)慰霊祭の行われる慰霊碑(高塔山忠霊塔左)は、故 石橋良男氏(若松区)他の方々が尽力し、北九州市によって建立されました。石橋良男氏は、特攻兵器、人間魚雷回天の指導教官でありました。海上特攻から戻った凉月にも大きな思いがあられたと推察します。石橋氏の意志を受け、石橋氏自筆の資料を軍艦防波堤のページに掲示しています。?

このページは書きかけです。不完全な記述もあります。正しい事実は自分で調べ直しましょう。連絡はこちら


2013年の語る会 報告書を作りました。ご覧ください。

ツイッターの記事を載せてみました

 若松区 高塔山にある忠霊塔左の「軍艦防波堤三艦慰霊碑」は、整備工事が終わり、入れます。
きれいに整備して一部バリアフリーになりました。車椅子でもどうにか入れます。参拝しやすいように、コンクリートの歩道がつきました。草ぼうぼうの時期も助かります。

これは、山の中の「慰霊碑」の話です。海の側の「軍艦防波堤」は年中無休で見学できます。お間違えなく。

軍艦防波堤三艦慰霊碑の位置を地図案内しました。

ここに行きたいという声が多いのですが、案内地図がなく困っておられました。関係者には無断ですみませんが、北九州市所有の公園地ですので問題ないと考えます。支障があればこちらからお願いします


以下は、若松のものではありません。参考資料です。広島県のものです。

広島県のコンクリート船防波堤
武智丸の写真集です。
また、その近辺のコンクリート船半没曳航油槽船についての記述も貴重です。


↑本文以上↑。

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